2010年07月22日

知る人ぞ知る佐久市「川村吾蔵記念館」

確か2000年のことだった。

長野県学芸員懇話会第3回勉強会で、県内の学芸員の方々にミュージアム・プランナーとして講演をさせて頂く機会を持ち、「展示業界から見た博物館展示計画」と題し、業界内の面白い裏話を交えながら、博物館の展示コンテンツ計画と取材・制作・施工について話をした。

そのときに出会った懐かしい知人から職場異動の知らせがゴールデンウィークのころ届いた。
佐久市の田口地区の五稜郭公園に3月30日オープンした「川村吾蔵記念館」へ勤め先が変わったという。

先日、佐久市内で撮影があり、時間を調整して美しい彫刻を見ることで目の保養を―と、訪ねてきた。

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Photo≫とこぞのクリニックと思ってしまう「川村吾蔵記念館」。いやいや良い建物。少々、辛口すぎた

五稜郭公園とは、江戸時代の信濃の小藩・竜岡藩が幕末に築いた五つの稜が星型に突き出ている洋式城郭に、整備された公園である。
北海道函館市に建造された城郭「五稜郭」とともに、当時日本で二箇所しかなかった先進設計概念の城郭だ。

彫塑家・川村吾蔵(1884−1950年)は、同市旧臼田町出身で、主に米国で制作活動をしたため、日本であまり作品は知られていないダークホース的な存在なのである。

戦前に米国へ渡りニューヨークなどで彫刻を勉強、フレデリツク・W・マクモニスに師事し、高さ12メートルもあるニューヨークの平和凱旋(がいせん)門・戦勝記念碑など共作、高い評価を得、これらの屋外彫刻は川村作品の神髄といわれている。また、理想的体形の乳牛像を制作し、「牛のGOZO」として全米で有名になった。

太平洋戦争開戦直前に帰国する。
故郷臼田に疎開したが「米国帰り」と後ろ指を差され苦労の日々が続く。終戦を迎え、軽井沢で通訳をしているとき、訪れたアメリカ人に『牛のGOZO』と面をわられ、アメリカ海軍横須賀基地美術最高顧問となった。住居とアトリエを提供された川村は、マッカーサー元帥をはじめ将校などの胸像を制作することになる。胸像はその他にヘレンケラー、友人の野口英世や島崎藤村などがある。

長野県内で我輩が知る川村作の胸像は、上諏訪の千人風呂「片倉館」の受け付け手前の左に建つ片倉財閥として繁栄を極めた二代目片倉兼太郎の胸像で、1930年5月に制作された。片倉財閥とは明治6年(1873年)に長野県で製糸業を興し急成長した財閥で、片倉館は洋風建築の文化福祉施設として昭和3年に建てられた温泉浴場である。

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Photo≫最寄のJR小海線の臼田駅、北にある踏切から見た浅間山。ここから記念館まで、車で5分

ところで、芸術家とは因果な生き方である。

特に戦前から戦中に成長した芸術家は、川村だけでなく先の大戦でいろいろな苦労をしたゆえに、種々のレッテルを貼られるということがあった。特に川村はGHQに支援された一方、米軍に取り入ったとレッテルを貼られ、先にも述べた「ダークホース的存在」の理由は、この辺の事情が影響したのかも知れない。
今考えれば当時の芸術界における光と影であったのだ。

さて、川村吾蔵記念館には旧臼田町に遺族から寄贈された作品が収蔵・展示されている。彫刻は492点で、その内訳は胸像などブロンズ像が47点、石こう38点、木彫は1点があるという。デッサンなど素描は210点、手紙や写真などの資料類も数多くあり、その殆どが収蔵庫に保管されている。

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Photo≫「川村吾蔵記念館」のリーフレット

尚、展示室は撮影禁止でカメラをしまったため、このブログでは紹介できない。なので是非、現地へ足を運んでもらいたい。

「正統な彫刻とはこう在るべきもの」と、納得できる川村作品が堪能できるはずである。

安藤州平Webアトリエ


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